好きを探す
自分の好きを見つけていく事が幸せに繋がるのではないかと思った。
良くわからないけど人間関係で上手く生きれないという問題に悩まされてきた。
悩み抜いた結果なんとなく原因が見えてきた気がする。
自分の好きを我慢する生き方をしていると上手くいかない。
まず自分の行動原理が自分の好きなのか誰かの好きなのかに気付くこと。
言葉にすると単純だけどそれを感覚的に判らないといけない。
いつの間にか~しないといけないという強制や脅迫のようなもので行動しているから。
世間体や人の目、他人からの評価、見栄など。
同じ行動でも本人が好きだからするのか、我慢して嫌だけどするのかとでは陽と陰の違いのように結果が変わってくる。
好きには人を引き付ける力があるし、自分のやる気を上げる力がある。その感情は共鳴や反射をして伝わり、主客合一の原理で周りも自分自身も好きになることに繋がる。
嫌いが理由だとその逆が起こる。感情は無意識下で伝わるのでこれが良くわからないけど上手くいかないという結果になるのではないだろうか。
勝つから飯が食える
生きているものすべてに当てはまること。
勝つから飯が食える。
勝たないで飯が食えるのは貰っているから。
生きるには闘いに勝つしかない。
争いを避けるものは自立できない。
自立とは闘いに勝ち相手の命や希望を奪えること。
今の重要性
「過去」の事を悔やんでもいい方向には進まない。
「未来」の心配して不安になってもいい方向には進まない。
変えることができるのは「今」しかない。
常に「今を良くする事」を意識するだけでいい。
自分が今をどう思うかによって未来が変わりその結果が過去になるからだ。
それ以外を考えるのは無駄なんだ。
今をどう変えるかによって起こる未来も過去も変わるんだ。
未来を変える方法
今と過去と未来がある。
脳内ではその区別があいまいだという。
過去の事を思い出して感情が動くのも、
今の出来事で感情が動くのも「身体」は違いが分からないからだ。
常に今に対して反応しているのだ。
過去を思い出したのも未来を想像したのも「今」だから。
しかし過去も未来も現実ではなく目の前にある「今」だけが「現実」なのだ。
過去が現実に起因していることは当たり前に分かるだろう。
それでは未来を変えるとはどういうことかというと、なりえる2つ以上の可能性があった場合に「自分が快と感じる」方向にコントロールする事であろう。
「思考」=「過去」であり。
「感覚」=「現実」である。
「感覚」=「現実」となるのは私たちが「現実」だと感じているのは物理的な事象ではなく視覚や感覚器官を通した「感覚」でしかないからだ。
だから、感じたことが「身体」にとっては「現実」なのだ。
余談になるが、感覚による現実と物理現象による現実に違和感を感じると物理現象の測定によって違和感の原因を突き止めようとする傾向があるようだ。そういった思いが自然現象を解き明かそうとする人の潜在的な動機になっているように思う。
「考えるな、感じろ」という言葉がある。
武道においては感覚を研ぎ澄ませるという意味だと思われるが、
この言葉にはもっと深い意味があるからこそ名言になっているのだろう。
では感じろとは何を感じることだろうか。
そう考える事は「思考」だといえるが思考は「感覚に目を向ける」という意味では間接的に未来を変える事ができるといえる。
何を感じるかと言えば「十分満たされている」という事だろう。
十分満たされていると感じることは思い残す事が無い、未練が無いということだ。
思い残す事がなければその事に囚われる事が無くなる。という事はそのことについて「思考」しなくて済むということだ。
「感じる」こと自体が「思考」を止め、本来の能力を引き出す役割があるが、
「十分満たされていると感じる」ことは「無駄な思考の必要性」自体を無くす役割がある。
「十分満たされている」という事は「しなければならない」という義務(不快)から解放される事でもある。
~しなくてもいいということだ。
これは言い換えると「そのままでいい」ということだ。
自分を許し、自己肯定感を持つという意味があるのだ。
一見矛盾しているようだが、
「今、欠けている」から努力(不快)しなければならないと感じる「感覚」ではなく、すでに「今、十分満たされている」という安心(快)の「感覚」によって感情が変わり結果的に未来が良くなるのだ。
ここで注意するべき事は「努力しなければならない」(不快)と思うことと「手に入れたいからやる」(快)というのは全く逆の感情を伴っているという事である。
そして感情(快・不快)は伝染し本人だけではなく周りの未来にも影響していくのだ。
「自分が正しい」という事
自分を「正しい」と思っていない人間がいたとしたらどういう気持ちでいてどういう態度をとっているだろうか。
自分が間違っているんじゃないかという疑念を自分に抱いているだろう。
それはまさに自己肯定感が低い状態だということがわかる。
という事は自己肯定感を高くする前提に「自分が正しい」という気持ちがあるということが言える。
自分がおかれた環境、どう扱われたかによって「自分が正しい」という思いが否定されれることがある。
誰かに「従っている」限りそれは「相手が正しい」であり必然的に「自分が悪い」となってしまう。
それは自立にも関係している事がわかる。
「相手が正しい」ということは相手の考え次第ということだからだ。
「自分が正しい」という強い意思が
自己肯定感を高くし、心の自立に繋がるのだろう。
すべては2極でできているという原理原則があるが、
これは快・不快の2極とは別のもう一つの2極、正義・悪に関連している。
「自分が正しい」という思いは自分の中に「正義」を持っているということだからだ。
自尊心と自己肯定感と誇り
この3つの言葉の違いを理解する事は意味があるだろう。
自己肯定感・・・言葉から、自分を否定しない感情。自分を認識している自分に対しての感情。自己評価が「良い」なのか「悪い」なのかということ。許しているかどうか。
自尊心・・・自分を尊重する心。尊重とは大切なものとして大事にすること。他者によって傷つく。その存在を価値あるものとしての「自分に対する扱い」。
誇り・・・自分の名誉(自尊心)を他者から守ろうとする「意思」。
自己評価が良い(許している)→自分を大切に扱う→自分の価値を他者から守ろうとする意思がある
好き→大事→守る
感情の根源は快か不快に別けられるが快=好き、不快=嫌いで快は引き寄せる力になり不快は遠ざける力になる。
自分という存在に快(好き)を感じる事がはじまりではないだろうか。
心の仕組み
人のあらゆる悩みの根源が自己肯定感に関わるのではないだろうか。
自己肯定感は「自分は無条件で問題無い」という潜在意識になる。
それは安心感であり人が目指している「幸福」なのかもしれない。
得体の知れない不安感、自信の無さ、人間関係が長続きしないなどといった悩み、人との関わりにおける問題はすべて自己肯定感に関係している。
人は自己肯定感を得る為に生きているといっても過言ではない。
そして自己肯定感を得る為に相手の自己肯定感を奪うという取り合いをしている。
奪うことをせずに自己肯定感を高める方法があれば自分も自分と関わる人との関係も上手く行くだろう。
その方法はあり、しかも単純で「自分で自分を褒める」という事のようだ。
「自分を褒める」という事は「幸福」と繋がるという程重要な事なのかもしれない。